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マスコミの理解

2012.05.07

 

 昨日のブログで書いたとおり、マスコミの社説は本当に酷いのですが、勿論「マスコミ」の全てが悪いというわけではありません。
例えば、現場の記者は、かなり的確に理解されておられます。

 「弁護士が増えすぎたら弁護士が困るというよりは市民が困る」こと、「法科大学院制度は既に破綻している」こと、「裁判員制度は一刻も早く廃止すべき制度である」こと等々これら意見を現場の記者から再三伺います。また、結論のみならず、その結論を導くための前提となる事実や論理的筋道についても現場の記者は良く理解され、正当な批判をしています。
 意見だけでなく、報道も現場の記者が書いた記事の多くが鋭く本質を突いており、論理破綻もほとんど見られません。

 ところが、何故か社説論者になると急に論理矛盾や非合理的な結論をイメージ戦略だけで強引に持って行こうとします。
 
 何故か社説論者は「司法改革は素晴らしい。」「司法改革を進めなければならない。」という結論を導く使命があるようです。社説論者は長年現場の記者をして次第に管理職になり、そのうちの更に一握りのエリートがなることができるのでしょうが、現場を長く離れたからといって、その間に論理的筋道がわからなくなるというわけではないと思います。
 
 何故かはわかりませんが、とにかくある特定の結論に導くために、強引に論を持って行かねばならないので、論理破綻を来すのです。しかも社説論者は、それをわかっているから、品位を欠いた感情的な文章になってしまうのではないでしょうか。

 そういう意味では、社説論者は規範に直面しながら、それを乗り越えて誤った方向へ読者を誘導しようというのですから、社説論者の悪質性は相当なものだと思っています。

 昨日の読売新聞の社説論者も「企業や自治体に弁護士の雇用を働きかけるなど、日弁連が先頭に立って、弁護士の職域を拡大させていくことが肝要だ。」と記載しており、これ以上弁護士を増やす必要性や需要がないことを認めています。
 それでもなおこの社説論者は「弁護士を増やすべき」と主張しているのです。
 すなわち、この社説論者は、需要がなくとも、必要性がなくても過剰供給された弁護士を企業や自治体に弁護士自らが売り込んでまで弁護士を増やすべきと言っているのですから、社会全体のことや市民の人権を考えて弁護士を増やすべきと言っているのでないことは文章自体から明白となっています。

 とにかく、ひたすら「弁護士を増やすべき」とのお題目を唱えているだけなのです。

 社説論者が恥を捨ててまで、誤った方向に導こうとする、その理由が私は知りたいと思っています。
 



 
 

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