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思い出すこと=髑髏とメメント・モリ(死を忘れるな)(1)

2021.03.04

 

久し振りのブログ更新です。
私の夫が豊郷病院の冊子に投稿した文章を数回に分けて下記の通り掲載させて戴きます。

     記

思い出すこと - 髑髏(ドクロ)とメメント・モリ(死を忘るな)-
                                  武本一美

1.髑髏
 子供のころ、髑髏は、マンガなどでよく見たものだ。悪の組織のメンバーは、髑髏の仮面をかぶっていたし、骸骨が戦うものもよくあった。海賊船には、髑髏と二本の骨の旗が掲げられていた。正義の味方にも、黄金バットという髑髏のヒーローがいた。
けれど、生々しく髑髏を意識したのは、織田信長のエピソードだった。織田信長が、頑強に抵抗した浅井久政、浅井長政、朝倉義景の頭骨から髑髏杯を作り、酒宴をはったという話は、子供の私に強い印象を残した。信長という人に似合いすぎるぐらいのエピソードで、信長の天才性とそれと表裏一体をなす精神的奇形性を余すところなく伝えていた。
 後々調べてみると、一級資料とされる「信長公記」にも、若干小説を交える「信長記」にも、信長が髑髏杯を作ったとか、それで酒を飲んだとかの記録はない。ちなみに、「信長記」の記載は、「已に三献に及びける時、珍しき肴あり、今一献あるべきとて、黒漆の箱出て来る。何ならんと怪しみ見る処に、柴田修理亮勝家が呑みける時、自ら蓋を開けさせて玉ふに薄にて濃なる頸三あり」である。「薄にて濃なる」とは、薄濃または箔濃(はくだみ)のことで、漆と金を施したものをそう呼ぶそうだ。つまりは金色の髑髏で、それを飾って宴会をしたのである註1)。それでも、十分に信長の異常性を伝えているが、髑髏杯には劣るだろう。
 では、頭骨で髑髏杯を作ったという話の出典はというと、「浅井三代記」であるらしい。しかし、「浅井三代記」は、寛文11年(1671)ごろ、つまり浅井・朝倉滅亡の約百年後にできた書物で、内容は架空の軍談が多く史料的価値は低いと評価されている。

 やや長じて10代の終わりごろか、匈奴の冒頓単干(ぼくとつぜんう)(生年不詳 - 紀元前174年)に関して、敵の「頭をもって飲器となす。」との記載を読み、ひどく驚いた。その頃はまだ、信長は髑髏杯を作ったと信じていたので、「それでは、髑髏杯は信長の独創ではないのか。」と、信長に対する畏敬の念が薄らいだことを憶えている。
 これも今回調べなおしてみると記憶違いで、史記の大宛伝 巻123や漢書の匈奴伝 巻64下に記されているのは、冒頓単于が対立していた月氏を破り、冒頓の子老上単于(ろうじょうぜんう)が月氏の王を殺し、その頭部を飲器にしたようだ。
(大宛伝)及冒頓立 攻破月氏 至匈奴老上単于殺月氏王 以其頭為飲器

 更に後年、いつだっただろう、ヘロドトスの「歴史(中)」(岩波文庫)を読むと、P40以下に次のようなスキュタイ人の習慣が記されていた。「最も憎い敵の首だけをそうするのであるが。眉から下の部分は鋸で切り落とし、残りの部分を綺麗に掃除する。貧しい者であれば。ただ牛の生皮を外側に張ってそのまま使用するが、金持ちであれば、牛の生皮を被せた上、さらに内側に黄金を張り、盃として用いるのである」。スキュタイ人も、髑髏杯を用いていたのだった。
草原の道、英語でステップロードは、シルクロードの北を走り、アジアとヨーロッパを繋ぐ壮大な交通路だ。匈奴とスキュタイ人はその東と西で活躍した。それが、同じ髑髏杯を使っていた。そして、スキュタイは、北方アジアから黒海東北部に移動したとされている。なぞの多い二つの民族が実は同一であったのではないかと長く空想していたが、現在は、匈奴はトルコ系かモンゴル系、スキュタイはイラン系という説が有力であるようだ。

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